応仁の乱の前後から、守護同士の紛争が目立って増加しており、それに歩調を合わせるように、在地領主である国人の独立志向(国人一揆など)が見られるようになる。これらの動きは、一方では守護の権威の低下を招いたが、他方では守護による国人への支配強化へとつながっていった。そして、1493年(明応2)の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護は、守護代や国人などにその地位を奪われることになり、逆に国人支配の強化に成功した守護は、領国支配を一層強めていった。
こうして、室町期の守護のうち領国支配の強化に成功した守護や、守護に取って代わった守護代、国人は、戦国大名へと変質・成長していった。しかし、室町時代、世襲という家柄や既得権として権威があった守護職は戦国時代でも、戦国大名の称号としてそれなりに意味を持っており、実力者の称号となることでそれなりの意味を持った。多くの戦国大名が幕府から守護に補任されていることはその証左である。このことから、戦国期守護という概念を提示する論者もいる。
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なお、出羽国の戦国大名 安東氏では当初、蝦夷管領として北海道にも勢力を持ち、奥州十三湊日之本将軍、または東海将軍と称して北海道南部に土着した安東氏の庶家や蠣崎氏(後の松前氏)を上国守護職、下国守護職、松前守護職などに封じているなど、幕府以外にも守護職が独自に設置・任免された事績も確認できる。
幕末、会津藩の藩主、松平容保が朝廷を通じて江戸幕府より京都守護職に任ぜられている。過去にも「京都守護」の職名は存在したが、この場合は「京都守護職」と称するのが正式であり、守護職の読みも室町時代の“しゅごしき”に対して“しゅごしょく”と読む。