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国際交流の発展

十字軍の遠征は失敗したが、反面、戦争によって国際交流は進んだ。ヨーロッパ商人とイスラム商人の間に交易が盛んに行われ、ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が輸出され、イスラムからは香辛料や絹などの交易品が安くヨーロッパに流入するようになる。[7]。特にヨーロッパとオリエントの間に位置するビザンツ帝国やイタリア諸都市国家の経済が著しく発展した。ことにイタリアではルネッサンス運動が花を開いて近代の扉も開けられた。

イスラム勢力がモンゴル帝国に圧迫されるようになると、ローマ教皇をはじめ西ヨーロッパ諸国家は国情視察も兼ね同盟や交易を求めてモンゴル帝国に使節を派遣した。1245年プラノ・カルピニはグユクハーンと謁見を果たした。宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリアの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアに訪れるようになり、カラコルムや大都などの主要都市にまで長期滞在する者さえ現れた。中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験を口述し東方見聞録として著した。イスラム諸国、インド、中国、ジパング、プレスター・ジョンについての記述が、ヨーロッパ人の好奇心を掻き立ていっそう世界に目を向けさせる一因になった。

15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構に支えられたオスマン朝トルコが1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、東西の中間に楔を打つように君臨した。オスマン朝は高い関税を武器に交易を独占し、イタリア諸都市国家の連合艦隊に勝利して地中海の制海権を獲得した。このようにオスマン朝によってイタリア商人の経済活動が衰退した結果、新たな交易ルートがヨーロッパに渇望されるようになった。

一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
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また、このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追って北アフリカ沿岸に進出するようになった。

新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。

初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした"早い者勝ち" の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。

さらにローマ教皇も海外進出を強力に後援した。15世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を計画した。

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2009年06月01日 13:58に投稿されたエントリーのページです。

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