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男性名、女性名の特色と歴史的変遷

男性の名には「健」「隆」「雄」「宏」「俊」など力強さや雄大さを連想させる文字がよく使われ、3文字では「〜オ」「〜キ」「〜タ」「〜シ」「〜ジ」「〜ト」「〜ヤ」「〜ゴ」などと続く名前が多く、「〜スケ」「〜ヒロ」「〜ユキ」「〜アキ」「〜ヒコ」「〜ヘイ」「〜ヒサ」「〜ノリ」「〜タカ」「〜ノブ」「〜フミ」「〜タロウ」「〜イチロウ」などのように平仮名で4文字以上になる名前も少なくない。漢字一文字の名前も多く、訓読みでは「ユタカ」「アキラ」「ヒロシ」「オサム」「サトル」「ハジメ」「マコト」などがあり、近年では音読みによる「リョウ」「ショウ」「ケン」などと言った名前が好まれている。尚、生まれた順番に、男性を意味する字である郎・朗を付けて「一郎(太郎)」「二郎(次郎)」「三郎」などとすることは昔に比べ少なくなったが、一番になって欲しいという願いから「〜一」と名付けたり、姓名判断などから縁起を担ぎ、前の字に漢数字を付して「〜二」などとすることは現在でも散見される。その一方で、「〜衛門」「〜兵衛」「〜丸」「〜吉」「〜麿」といった名前は姿を消しつつある。
ウリヤ きくすい ルーン はに丸 フィッシン サディ ビアガー ジャック コスプリ ワニス 深海 トリオ パンパン ボート レーター しじゅう オフロード シーン ドラム ナミビア やちょ アカペラ セミプロ レガッタ ロヤジル トルソ フフホト ケモカイン リンリン メシマ ニュー ビュス プロテクト テーブル シャレー コリオン 四季の綱 トメント フォロー オマージュ ゲート パセリ フォーク ナーダム おきな シート しょうわ サック ティペット ジョンツ

女性の名には「優」「恵」「愛」「友」「里」など優しさや可愛らしさを連想させる文字がよく使われ、「〜コ」を筆頭に、「〜ミ」「〜カ」「〜ナ」「〜エ」「〜ヨ」「〜リ」と続く名前が多く、他に特徴的な語尾として「〜イ」「〜ノ」「〜ホ」「〜キ」「〜サ」「〜ネ」などが見られる。ただし、昨今は「〜子」で終わる名前が少なくなってきているとも言われ、1990年の時点で20年前と比較して約19%減少したと報道された。また、「桜」「桃」「梨」など花の名前も好んで使われる。そして、女性名では漢字の煩雑さを嫌い、平仮名の軟らかさを好んで名前が平仮名で登録される場合も多い(一方、男性では平仮名のみの名前は滅多に見られない)。また、名前が男性に比べて短く、仮名で4文字以上となるケースは極めて稀である。

一方で、『ユウキ』『ヒロミ』『カズミ』『カオル』『ヒカル』『トモ』『ユウ』など、男女両方に使われる名も少なからずある。最近では、旧来は女性名とされてきたものが男性に使用される場合や、『アキラ』『マコト』『ヤマト』『ミツル』のように男性名とされてきたものが女性に使われる場合もある。また、『レオナ』(ノーベル賞受賞者の江崎玲於奈の影響)『カオリ』『チヒロ』『チアキ』など女性的に見える名前が男性に付けられることもある。例えば、蘇我馬子・小野妹子・平国香・正親町三条実愛・一条忠香(明治天皇の岳父)などの歴史上の人物、田沼則子(ただし)(三木のり平の本名)・渡邉美樹‎(ワタミ社長)や、吉田照美(フリーアナウンサー)のように「〜美」を付ける男性もいる。特に「〜美」は男女が非常に判り辛い。これら『子』や『美』が男性に使われることがあるのは、『子』の字が男性の美称でもあることに由来(その名残で現在でも「日子(ひこ)」と同音の「彦(ひこ)」が男性に使われている)し、『美』の字が「大きな羊」という意味から作られた字であることに由来している。また、元々は外国の人名であるものに漢字を当てた名前も多い。『レオ』『サラ』などは近年になって使われ出した名前だが、『ジョウジ(ジョージ)』『ナオミ』『エリカ』『リサ』『マリ』などは、今や日本人名として広く定着している。

姓の継承と変更
婚姻により夫と妻が新たな戸籍を作る際には、その姓(苗字のこと。法制度上は、「氏」と称していることに注意)として夫・妻いずれかの結婚前の姓を付けるものとされており、結果として結婚後の両者の姓は統一される。どちらの姓を採るかはその夫妻の決定に委ねられるため、単純に考えれば双方5割前後となるはずだが、旧民法の家制度の下で妻は嫁として夫の「家」に入ってその姓を名乗るもの、という意識が広まった結果、新民法の下でも95%以上の戸籍で夫の姓を採用している。この制度については1990年代半ば頃から見直しの気運が高まっており、「夫婦別姓」問題として議論されている。結婚後も夫婦別姓を採用することの利点として、姓を変える側(通常女性)が一方的に蒙る社会生活における煩雑さや不便が避けられること、結果の平等の視点にたち男女平等の精神に即したものであること、などが指摘されている。反対意見として夫婦の絆を弱めるものだとの意見や、夫婦の間に生まれた子供の苗字をどちらにするかの問題などがある。

養子縁組の場合は養親の姓を名乗ることになる。

近世以降、現代の日本における姓の動向については、特に記事 「姓」 に挙げる。

日本では結婚後に姓が変わった場合、結婚以前の姓を「旧姓」と呼ぶ。女性の結婚以前の旧姓を英語では特に「maiden name」と言う。また養子縁組によって姓が変わった場合もそれ以前の姓を旧姓と言う。

名付け
現代の日本では、上述したように、正式な名前は姓と名からなる。これは戸籍に登録されており、新生児は出生後14日以内(国外で出生があった時は3ヶ月以内)に登録する(戸籍法第49条)。

名前は親や祖父母などが考えて決める場合が多い。子供の名前を集めた本や姓名判断など占いの類を参考にする場合もあるが、出生当時の社会情勢が子供の名付けに反映されることも多い[3]。

例えば、昭和10年代では戦時体制下を反映して男性の名前に「勝」「勇」などの名が上位に見られるが、戦後昭和21年以降になると「勝」は上位10位から姿を消す(ちなみに「昭和」の「昭」の字は長年大衆に馴染みが薄く、武士などの知識階級に伝わる程度であった(足利義昭など)。昭和に改元されてから広く国民にも知られ、名前として使われるようになった。それまでは「照」の下の点々を取ったヤツです、等と説明せねばならなかった)。昭和50年代以降は有名スポーツ選手やテレビドラマなどの主人公名が上位に見られるようになる(例えば、荒木大輔が高校野球で大活躍した時期には「大輔」が流行した。松坂大輔もその一人とされる)。女性の名前から「○子」が少なくなるなどの変化が見られる。また、皇室の影響を受ける場合も多く、今上天皇(明仁)が皇太子時代に成婚した際は「美智子」という命名が流行し、続いて皇太子徳仁親王生誕の際には浩宮にちなんで「浩」という漢字を付けることも流行した(浩一・浩二・浩之・浩子・浩美など)。

名前に用いられる漢字
日本において名前に使用できる漢字は、常用漢字(1945字)と人名用漢字(983字)である。ただし、字数についての制限はない。

同じ戸籍内にいる人物と同じ文字の名前を付けることはできないが、同じ読み方の名前を付けることはできる。例えば「昭雄(あきお)」と「昭夫(あきお)」のように同音異字の場合は可能であり、「慶次(よしつぐ)」と「慶次(けいじ)」のように異音同字の場合は不可能である。なぜなら、戸籍に読み方は記載されないからである(翻せば、読みを替えるだけなら改名の必要はないことになる)。なお、「龍」と「竜」のように新字体と旧字体とは同じ字とみなされるため、「龍雄」と「竜雄」のような場合は不可能である。

また、人名は固有の読み方をさせる場合が多いが、法的な制限はない(→人名訓)。そのため、漢字表記と読み仮名に全く関連がないものも許容される(当て字が許されることもしばしばある)。
(例 風と書いて「ういんど」、太陽と書いて「サン」、自由と書いて「りべろ」など。特に英語で読む場合が多い。→DQNネーム)

姓名の使用
死亡すると、仏式の葬儀を行い、戒名(浄土真宗では法名)(例:○○大居士、○○居士(大姉)、○○信士(信女)、釈○○)を付けられる者も多い。日蓮正宗では男子が出家得度して僧侶となった場合、師匠から道号が付けられ、これまでの名を改め道号が名前となる。能化に昇級すれば日号(朝山日乗など)が名前となる。

以前から芸能人や作家は、芸名やペンネームを用いる者が多かったが、近年ではインターネットの普及によってそれ以外の人々がハンドルを使用することも普通に行われている。

正式な姓名は、人が互いを呼び合う際にはほとんど用いられることはない。あだ名、名、姓や名に「さん」「ちゃん」などを付けたもの、肩書きや続柄に関係したもの、二人称代名詞などが代わりに用いられることが多い。上記のハンドルを実社会で使う例もしばしば見られる。

一般に、呼称をめぐる習慣は非常に複雑であり、簡潔に説明することは困難である。当事者間の年齢や血縁や仕事上の関係、社会的な文脈などによって大きく変化するが、そうした文脈の制約条件だけからは一意的に決まらないことが多く、個人的な習慣や好みなども影響する。さらに、方言などと絡んだ地方差も認められる。また、歴史的には、日本語の一人称の一部は時代の経過とともに二人称として用いられるようになる傾向がある。「手前」(てまえ)はかつて一人称であったが、現在ではそこから転じた「てめえ」が二人称である。「自分」はかつて陸軍における一人称であったが(陸上自衛隊でも使用されている)、関西地方では近代以降に二人称として用いられている。このことから、日本語を学ぶ外国人が最も苦しむのが二人称であり、日本の商習慣も相まって非常に難解とされる。

日本人の姓名の歴史的変遷
この項では、いわゆる日本民族としての日本人の姓名の変遷について記述する。沖縄あるいはアイヌは異なる歴史を持っているが、これは別に一項目を立てて述べる。

明治維新以前
明治維新以前の日本の成人男性は、とりわけ社会の上層に位置する者は、氏(ウヂ。本姓)と家名(カメイ)の2つの一族名、諱(イミナ)と通称(仮名:ケミョウ)の2つの個人名を持っていた。

例えば、忠臣蔵で知られる大石内蔵助のフルネームは「大石内蔵助藤原良雄」(おおいしくらのすけふじわらのよしたか)」である。家名(名字)が「大石」、通称が律令官名で内蔵寮の次官を意味する「内蔵助」、氏が「藤原」、諱が「良雄」となる。

この4つの組み合わせ方は決まっていた。「大石内蔵助」のように、家名と通称、氏と諱が組み合わされた。家名と諱を組にすることはなかった。

同じように、「織田弾正忠平朝臣信長」(おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが)は、現在は織田信長と呼ばれるが、当時は織田弾正忠あるいは織田弾正忠信長と呼ばれ、朝廷の公文書には平朝臣信長と記された。「織田信長」という呼び方は、呪詛など特殊な場面以外はほとんど用いられなかった。

明治維新以前の日本人男子名の構成要素を漢文表現と比較すると以下のようになる。前者が日本の固有表現、後者が漢文表現である。

家名(カメイ)・名字(ミョウジ) →氏(シ)
通称・仮名(ケミョウ)・あざな→字
氏(ウヂ) →姓(セイ)・本姓
姓(カバネ)→対応なし
諱(イミナ)→諱
※中国でも同姓族集団の解体と氏の発生が起きたが、これは日本での同姓族集団の解体と家名の発生と並行する現象ではなく、中国での氏の扱いは父系血統を示すため、日本の姓の扱いに近い。ただし、日中両国共、姓概念と氏概念の混同が起きているし、日本では国内の固有概念と中国の漢文概念の混同がしばしば見られ、実際の用例に当たるに際して注意を要する。


古代の律令国家の時代には、庶民も姓(セイ)を持っていたことが、現存する当時の戸籍から明らかとなっている。
この姓(セイ)は、その氏(ウヂ)集団(氏族組織。古代社会の単位の一つ)の一員であることを意味し、今日の苗字と同義の姓(セイ)とは性質が大きく異なる。
支配者層の姓(セイ)である氏(ウヂ)には、氏姓の制により、朝廷とその氏(ウヂ)との関わりを示す姓(カバネ)が付された。例えば、今日藤原鎌足として知られる藤原朝臣鎌足(ふじわらのあそんかまたり)は、藤原が氏(ウヂ)=姓(セイ)、朝臣が姓(カバネ)、鎌足が名である。

平安時代になると、古代から中世への社会変動の中で古代的な氏族組織は衰退し、社会の上層から「家」を単位とする組織化が進行した。古代的な姓(カバネ)は、朝廷との関係についてしか使われなくなった一方で、家名を名乗るようになった。例えば、摂関家の近衛家の人物は、朝廷では藤原という姓(セイ、本姓)を、家名(のちの苗字に相当)としては近衛を名乗った。こうした家名の中で、領主身分を獲得した武士によって用いられ始めたのが、今日の名字である。

在地社会では、古代の豪族が率いる伝統社会が崩壊した後、貴族や大寺社の寄人(よりうど)となることなどを通じて、それに応じた姓(セイ)が与えられるようになり、百姓身分であっても藤原・紀・秦・清原といった古代豪族や朝廷貴族と同じ姓を名乗るようになった。そうして得た姓を同じくする者同士で、律令戸籍の姓(セイ)とは全く別の、実利を重視した氏(ウヂ)集団が形成されていった。例えば、大貴族の○○家から秦という名を与えられた者の集団が、秦一族という具合に。

しかし、鎌倉時代末期頃を境に、百姓身分も安定した婚姻関係を基礎にした継続的な家組織を持つようになり、氏集団への依存度が減少した。この頃から庶民が姓(セイ)を名乗る習慣は消滅していき、代わって、独立的な家名としての名字を名乗ることが一般的になった。

本姓・氏(ウヂ)は、父系の血統を示すため、養子に入っても変えることはできないのが原則であった。しかし、後世になるほどこの原則の適用は緩くなり、他家の名跡を継いだ場合などには、その家の本姓に変わる場合も少なくなかった。例えば長尾景虎は、長尾氏は平氏なので平景虎だが、上杉氏の名跡を継ぎ上杉輝虎(上杉謙信)となった後は、上杉氏の姓は藤原であるため藤原輝虎となった。

女性の場合、本姓は婚姻後も変わらず、家名を女性の名前に冠することは通例ではなかったようである。例えば、北条政子は、当時は「平政子」と称した。

賜姓という姓を授ける習慣もあった。豊臣秀吉の賜姓の例として、羽柴姓では徳川家康が羽柴武藏守大納言、前田利長が羽柴肥前守など、豊臣姓では真田信繁等がある。江戸幕府では、外様大名の宗家へ賜姓が行われ、前田利常の松平筑前守(前田氏は後に松平加賀守となった)、島津家の松平薩摩守、毛利家の松平長門守などがある。なお、これらの大名家は戊辰戦争後に元の姓に復帰した。

江戸時代には、名字は、支配階級である武士や、武士から名乗ることを許された者のみが持つ特権的な身分表徴とされた。公式な場で家名を名乗るのも武士や公家などに限られていた。

しかし、百姓身分や町人身分の者も、村や町の自治的領域内では個々の「家」に属しており、当然のながら家名を有した。こうした百姓や町人の家名は私称の名字と言える。武家政権は、村や町を支配しても、その内部の家単位の組織編制には立ち入らなかったため、個々の百姓や町人を呼ぶ場合は家名を冠せず、百姓何某、町人何某と呼んだ。しかし、武士や公家は名字と、それに付随する姓を持っていたが、名字を私称した百姓や町人は、姓は持たなかった。

町人には、大黒屋光太夫など屋号を名字のように使う例も見られた。 東日本では、百姓も屋号を名乗ることが多かった。八左衛門などといった家長が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多く、これをしばしば私称の名字と組にして用いた。

個人名である諱は、公家武家を問わず、通字を用いる習慣が見られる。鎌倉北条氏の「時」、足利氏の「義」、武田氏や織田氏の「信」、後北条氏の「氏」、徳川氏の「家」、伊達氏の「宗」などが有名である。家祖あるいは中興の祖として崇められるような家を飛躍させた祖先にあやかり、同じ諱を称する先祖返りという習慣もあった。これは伊達政宗が有名である。

先祖や創始者の諱を代々称する武家もあった。これは、市川団十郎・中村歌右衛門のような歌舞伎役者や笑福亭松鶴・柳家小さんなどの落語家などで名人とされた人の名を襲名する習慣や、上記のような商人の屋号の継承(茶屋四郎次郎など)という形で庶民にも広がった。

武家では、主君の諱の一字を拝領をすることが栄誉とされた。与えられた字のことを偏諱(へんき・かたいみな)と言う。北条高時→足利高氏・足利尊氏←後醍醐天皇“尊治”が有名。烏帽子親の一字を受けることも多かった(北条高時は高氏・尊氏の烏帽子親である)。

偏諱には、代々の通字を与える場合と通字ではない方の字を与える場合があった。前者は特に主家に功績のあった者や縁者、後者は与えた人物との個人的な主従関係による例が多い。豊臣秀吉の場合、前者に小早川秀秋、宇喜多秀家、後者に田中吉政、堀尾吉晴、大谷吉継がいる。

偏諱の授与によって、改名を繰り返した例もある。上杉謙信は、元服時の長尾景虎(景は長尾氏の通字)→上杉景虎(関東管領山内上杉氏から姓を授かる)→上杉政虎(上杉憲政の偏諱)→上杉輝虎(足利義輝の偏諱)→上杉謙信(出家による戒名)と目まぐるしい。

江戸時代には、将軍から偏諱を受けることが決まっていた大名家もある(島津氏、伊達氏など)。

諱は、朝廷との関わりが生じるような階層以外は、実生活で使うことが滅多になかったため、周囲の者が諱を知らなかったり、後世に伝わらないことも起こった。「西郷吉之助平隆永」(さいごうきちのすけたいらのたかなが)は、親友の吉井友実が父の諱「隆盛」を彼のものと勘違いして朝廷に奏上してしまったため、新政府の公文書では「平朝臣隆盛」、戸籍令以降は「西郷隆盛」と呼ばれるようになってしまったという逸話が知られる。

在家の者の諱に対し、僧侶や出家した者は戒名を名乗った。禅僧は戒名の上にさらに法号を付けることもあった。一休宗純は、一休が法号、宗純が戒名である。
出家するということは、俗世との縁を絶つということを意味したため、世俗の名字・姓や諱を捨て、仏門の戒律を守る者の名という意味の戒名を漢字二字でつけた。従って、上杉謙信や武田信玄のように、世俗の名字の下に戒名を付けて名乗るのは、本来はおかしなことである。

東アジアではアニミズム的な背景から、避諱(ひき)と言って、実名である諱を他人が呼ぶことを嫌う習慣があった。日本でも同位もしくは目下の者からの呼称として仮名(けみょう)と呼ばれる通称が発達した。

男性の場合、こうした通称には、太郎、二郎、三郎などの誕生順(源義光の新羅三郎、源義経の九郎判官等)や、武蔵守、上総介、兵衛、将監などの律令官名がよく用いられた。後者は受領名や自官の習慣と共に武士の間に広がり、百官名(ひゃっかんな)や東百官(あずまひゃっかん)に発展した。

紫式部や清少納言、春日局のように、女性も通称で呼ばれた。枕草子を書いた清少納言は、父清原元輔が少納言であったことから清原の「清」を取って名付けられたと言われており、これらは「女房名」と呼ばれる。

また、政所・御台所といった女性の呼称や、上皇の○○院という呼び名も、直接名を口にするのを避けて居所で呼んだところに由来する通称である(詳しくは仮名 (通称)の頁を参照)。

これとは別に、隠居時や人生の転機などに、名を号と呼ばれる音読みや僧侶風・文化人風のものに改める風習もあった(例:島津義久→島津龍伯、穴山信君→穴山梅雪、細川藤孝→細川幽斎など)。

この風習は芸能関係者にも広まり、画家・書家や文人の雅号も広く行われた。狩野永徳、円山応挙等の画号、松尾芭蕉、与謝蕪村のような俳号、上田秋成、太田南畝のような筆名も広く行われた。中には、曲亭馬琴や十返舎一九のように本名と全く異なるものも現れた。これが、現在の芸能人の芸名や俳名、源氏名などの習慣につながっている。

なお、藤原定家(ふじわらのさだいえ)を「ふじわらのていか」と呼ぶなど、過去の文化人の名を音読みすることを有職読み(ゆうそくよみ)というが、これは号や仮名とは別物である。

女性の名前は、庶民が氏を名乗っていた中世前期までは、清原氏を名乗る百姓の女性ならば名前は「清原氏女」(きよはらうじのむすめ)などと記され、婚姻後も出自する氏(清原氏)の構成員として扱われた。しかし、庶民が名字を名乗った中世後期には、庶民の女性も、童名のままながら、「ねね」「やや」「とら」など、より独立した存在として記録に残されるようになった。
その一方、女性は婚姻後は出自の家ではなく婚家の家組織に従属するという習慣も明瞭となってきた。江戸時代には、関白の母を大政所、正妻を北政所、征夷大将軍の正妻を御台所と呼ぶように、女性は婚家の夫・子供の視座から呼称されるようになった。

明治維新以降
明治維新によって新政府が近代国家として国民を直接把握する体制となると、新たに戸籍を編纂し、旧来の氏(姓)と家名(苗字)の別、および諱と通称の別を廃して、全ての人が国民としての姓名を公式に名乗るようになった。この際、今まで自由だった改名の習慣が禁止された。明治以降の日本人の戸籍人名は、氏は家名の系譜を、名は諱と通称の双方の系譜を引いている要素が大きい。例えば夏目漱石の戸籍名である夏目金之助は通称系、野口英世は諱系の名である。

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2009年02月09日 16:12に投稿されたエントリーのページです。

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