2009年06月19日

白血病細胞が増加し、正常な血球が減少するため

白血病細胞が増加し、正常な血球が減少するため、白血球減少に伴う感染症(発熱)、赤血球減少(貧血)に伴う症状(倦怠感、動悸、めまい)、血小板減少に伴う出血症状(歯肉の腫脹や歯肉出血など)により判明することが多い。

血液中の白血球は透明な細胞なので多少増えても白くはならないが、白血病が重症になり1立方ミリメートルあたり10万個程度になると白く見えてくる。また同様に、赤白血病(FAB分類M6)でも必ずしも血がピンクになる訳ではない。一方、家族性リポ蛋白リパーゼ欠損症では血の中に脂肪が溜まり血が乳白色となるが、これは白血病とは呼ばない。

原因 [編集]
原因は明らかでないものが多いが、多くの白血病細胞では染色体の欠損や転座が認められ、自律増殖能の獲得との関連が示されている。

放射線被曝、ベンゼンなど一部の化学物質などは発症のリスクファクターとなる。その他にウイルスが原因であるものが知られている。ひとつはエプスタイン・バール・ウイルス (EBV) が関わっている急性リンパ性白血病バーキット型(FAB分類ALL L3)である。もうひとつは日本で同定された成人T細胞性白血病で、レトロウイルスのひとつ HTLV-I の感染が原因であることが明らかになっている。
アジアの美術
よの付く言葉
スポーツのあゆみ
くの付く言葉
名犬マルチーズ
雨模様
猫ニャン
柴犬について
生命の誕生
りんごのほっぺ
版画
オークション
映画館
射撃
応用数学
トリックアート
証券取引所
乗馬
高血圧症
ゲートボール

分類 [編集]
白血病における急性、慢性は一般的に用いる意味とは違っている。腫瘍細胞が分化能を失ったものを急性白血病、分化能を保っているものを慢性白血病と呼ぶ。
また、腫瘍の起源となった細胞が骨髄系の細胞かリンパ球系の細胞かによって骨髄性白血病、リンパ性白血病に分類する。このことから大きく以下の4種類に分類される。

急性骨髄性白血病 (acute myelogenous leukemia; AML)
慢性骨髄性白血病 (chronic myelogenous leukemia; CML)
フィラデルフィア染色体と呼ばれる9番と22番の染色体長腕間の相互転座により、9番上のabl遺伝子が22番上のbcr遺伝子領域へ転座しbcr/abl融合遺伝子が形成される。この転座はt(9;22)(q34;q11)と略して表記する。この翻訳産物であるBCR/ABL蛋白は正常ABL蛋白よりも高いチロシンキナーゼ活性を持つ。このチロシンキナーゼ阻害剤がイマチニブである。
急性リンパ性白血病 (acute lymphoid leukemia; ALL)
慢性リンパ性白血病(chronic lymphoid leukemia; CLL)
これらはさらに生物学的な性質から細分される。しかし、慢性骨髄性白血病だけはほぼ単一の疾患概念となっている(原因となる染色体異常がフィラデルフィア染色体 (Ph1) 以外にはほとんどない)。
細かい分類法はいまだに研究途上だがFAB分類が広く利用され、特に急性骨髄性白血病の診療において威力を発揮している。

その他の分類としては急性白血病、骨髄増殖性疾患といった分類も存在する。

2009年06月01日

国際交流の発展

十字軍の遠征は失敗したが、反面、戦争によって国際交流は進んだ。ヨーロッパ商人とイスラム商人の間に交易が盛んに行われ、ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が輸出され、イスラムからは香辛料や絹などの交易品が安くヨーロッパに流入するようになる。[7]。特にヨーロッパとオリエントの間に位置するビザンツ帝国やイタリア諸都市国家の経済が著しく発展した。ことにイタリアではルネッサンス運動が花を開いて近代の扉も開けられた。

イスラム勢力がモンゴル帝国に圧迫されるようになると、ローマ教皇をはじめ西ヨーロッパ諸国家は国情視察も兼ね同盟や交易を求めてモンゴル帝国に使節を派遣した。1245年プラノ・カルピニはグユクハーンと謁見を果たした。宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリアの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアに訪れるようになり、カラコルムや大都などの主要都市にまで長期滞在する者さえ現れた。中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験を口述し東方見聞録として著した。イスラム諸国、インド、中国、ジパング、プレスター・ジョンについての記述が、ヨーロッパ人の好奇心を掻き立ていっそう世界に目を向けさせる一因になった。

15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構に支えられたオスマン朝トルコが1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、東西の中間に楔を打つように君臨した。オスマン朝は高い関税を武器に交易を独占し、イタリア諸都市国家の連合艦隊に勝利して地中海の制海権を獲得した。このようにオスマン朝によってイタリア商人の経済活動が衰退した結果、新たな交易ルートがヨーロッパに渇望されるようになった。

一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
特産品 学習 宿泊施設 脂肪吸引 地域情報 豊胸 不動産 葬儀 投資 グルメ 抜け毛 菜園 リラク 乗物 パソコン 予約 教育 キャンプ場 フレグランス 老人 プチ整形 アルバイト 育児 リラク 趣味 介護 墓地 海外留学 冠婚 学習 海外 脱毛 家庭教師 関東 メイク クレジット フレグランス 探偵 出会い リラク リフレ 介護 古着 学習指導 産業 音楽 信越北陸 エイジ マンション 理容

また、このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追って北アフリカ沿岸に進出するようになった。

新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。

初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした"早い者勝ち" の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。

さらにローマ教皇も海外進出を強力に後援した。15世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を計画した。

2009年04月29日

参道

参道(さんどう)とは、神社や寺院に参詣するための道のことである。

参道は、一般的に、影響力がある神社や寺の周辺で、自然発生した門前町とセットに認識されている場所も多く、どの範囲を「参道」と呼ぶかは、場所によって異なり、それぞれの場所の慣習による。

ファインディングコスメチック検索エンジン
太陽 ビジネスオンラインサイト
ミスティムーン暮し百科情報
ファンド健康プラザ紹介
千代簡単ショッピングサーチ
学習・資格関連学習対策サーチ
交通・動物園関連旅行・宿泊情報サイト
サンフロンコスメグッツ全国情報ガイド
ディールージュ ビジネスコーチナビ
アンシャンテみんなの住まい情報

狭義には、鳥居や山門などの結界内の通路のみを示すが、広義には街道筋など人通りの多いところから寺社に至る道の全てを意味する。複数の参道が存在していた寺社も多数存在する。その場合、一番メインの参道は「表参道」などと呼ばれることが多い(たとえば東京明治神宮付近の「表参道」は、現在では国道246号線となっている矢倉沢往還・大山街道と明治神宮をつなぐ、明治神宮にとっての主要参道のことであり、地名となって定着してもいる)。
また、参詣のために街道筋が捻じ曲げられて寺社に近づいていたところなども、珍しくはなく、その捻じ曲げられた周辺の街道筋をも「参道」と呼ぶ場合がある

2009年04月14日

陳家太極拳

陳家太極拳(ちんかたいきょくけん、陳氏太極拳・陳式太極拳)は、中国河南省陳家溝在住の陳氏一族を中心に伝承されている中国武術。

陳家太極拳は現在分派した全ての太極拳の源流であり、その動作は剛柔相済、快慢兼備を理想とし、太極拳に特徴的な柔軟さや緩やかな動作だけではなく、跳躍動作や震脚(全身を沈め、大地を強く足で踏む動作)など激しく剛猛な動作をも含んでいる。発勁(中国武術でいう全身を協調一致させて威力を発する技術)は太極拳の得意とする暗勁(大きな動作を伴わない発勁法)ばかりではなく、明勁(大きな動作を伴う発勁法)をも得意とし、纏絲勁(纏絲精・らせん状の捻りを伴った勁)によって全身の勁力を統一的に運用することが他派の太極拳に比べ特異である。

一般的な太極拳のイメージからすると豪快な印象を持たれやすいが、慢練(型をゆっくりと練習すること)や、高齢の達人の拳風は剛柔が相済され、和式太極拳や楊式太極拳を連想させるかのように柔らかく緩やかである。

楊式太極拳の祖、楊露禅は陳長興(陳氏十四世)に陳家太極拳を学び、陳発科、杜毓沢は陳延煕(陳氏十六世)に学んだとされる。

異説はあるが20世紀に入り、陳発科が北京で大架式系統を教授してから、一般に普及しはじめたといわれる。

拳架(陳式套路の各種スタイル) [編集]
起源については現在も議論がある。武術史研究家唐豪以来の通説は、元朝に加担したため明の太祖・洪武帝による「犬の子一匹、生きて残すな」という殺戮によって無人地帯と化していた河南省温県常陽村(現・陳家溝村)に1374年、一族の長老、陳ト(これを陳氏初世とする)に率いられ強制移住させられた陳氏一族に家伝として伝えられていた武術が起源であるとされる。その制定者についても諸説ある。陳氏九世陳王廷(1600年頃~1680年頃 明の文痒生、清の武痒生)が家伝の武術(陳氏一族が温県に強制移住を命じられるまで住んでいた山西省洪洞県に今も伝わる通背拳か?)や、戚継光の『紀效新書』、諸家の武術を参考に創始したとする説が有力である。 陳氏十九世陳小旺によると陳王廷が制定した套路は以下の五種。洪砲捶百八拳、五套捶、陳式長拳、十五洪、十五砲。

陳氏十四世陳長興は煩雑な套路を整理し、一路(洪砲捶百八拳、五套捶)、二路(陳式長拳、十五洪、十五砲。これを砲捶とも呼ぶ)を制定した。これを老架式と称する。

さらに陳氏十四世陳有本、有恒兄弟が(世代は同じであるが年代的には少し下がる)これを小架式に改変し、以後、陳長興が制定したものを老架式、陳有本、有恒が制定したものを新架式と呼んで区別していた。その後、陳氏十七世陳発科(陳氏中興の祖と称される)が新たに新架式(大架式)を制定するに及び、以後、陳有本が制定した新架式を小架式と称するようになった。但し、正式な制定が解放後のため、今も台湾では小架式を新架式と呼んでいる。そのため日本では呼称に混乱がみられる。

この他の陳氏のスタイルとしては陳有本の甥で、陳家溝の隣村の趙堡鎮に婿入りした陳清萍の拳架である趙堡架式と、陳清萍の弟子の李景炎によって考案された忽雷架式がある。

陳式の学習者の間では大架式に対し小架式、新架式、趙堡架式、忽雷架式は、形的には非常に似ていて同一視され易い傾向にあるが、動作的にはどれも特徴ある表演(演武)スタイルをとる拳架である。

陳式太極拳の理論書としては、陳鑫(陳品三)の陳氏太極拳図説(陳氏小架式の拳譜)などがある。また、明代に戚継光が編纂した紀効新書の本文十八巻の一つである拳経には、陳式太極拳と共通する技法が見られる。

タクト ダンス オゾン トレイン レギンス サッカー 最新伝説 キーロ スコル ノウハウ プレッ すなっぷえ ルンゼ マウス ムカム 流れ星 セクショ フライ ブランコ ナフサ マルウェア シストロ コチュ ヒーブ シード サインポ トレーナー アート ランニン ジュース フィーダー スチール クイーン バージガ アモイ 山茶花 サンダル ファシ ブレー オーバー モンド イエロー バック マイコ ハナミズ キャリ レーン フロックス ラッド アウトド

2009年03月30日

遠州木綿(えんしゅうもめん)

遠州木綿(えんしゅうもめん)は、静岡県西部遠州地方の伝統生地である。

特徴 [編集]
8つの独立した行程がすべて浜松の中にあり、昔と変わらない生産が行われている。
永い歴史の中で培われてきた100柄以上の綿は、懐かしくも新しく感じるデザイン。
高温多湿の風土の中で改良された、使うほどに馴染む風合いと色合い日本色。

歴史 [編集]
浜松市三ヶ日町にある初生衣(うぶぎぬ)神社は、織姫様が祀られている。伊勢神宮に納める絹織物を織った天棚機姫命(アメノタナバタヒメミコト)である。浜松地域では綿花の栽培に適した風土を活かし、綿織物が発達した。

江戸末期から明治初期にかけて遠州縞の生産の事業化をしたのは、浜松の女性企業家の小山みいである。小山みいは、遠州縞の量産、品質管理などに取り組んだ。また販売に関わったのは木俣くらという女性である。
チャーター ファック なめこ バルチス 七色の風 サイドスタ アップ ジプシー ビルマ 赤唐辛子 牧場の家 ストック スリング アーケイズ ヒエロ バースト 一本釣り ダウナー 夏の日 青春の谷間 ワラン バターピ 風神雷神 マイイレ バード トロイオ デコルテ バビロン マロン てっけん 番外野郎 ダイハー ナイロビ オマーカー フルライ テリー 赤オクラ アップ 検索マナ メータロィ ブータン カニ歩き ヒーロ ローゼ スキャン 一本勝負 ガーケキ わらづと フラッ マルトル

女性たちの活躍により発展した事業は、その後静岡県湖西市出身のトヨタ創業者、日本の発明王「豊田佐吉」の自動織機によって大きく発展した。浜松地域は日本有数の繊維産業の集積となり、その技術は楽器・オートバイ・自動車産業につながっていった。

遠州綿紬は、浜松地域のモノづくりの原点、活力の源の一つと言われている。遠州地域の木綿の織物は、大きく発展し1970年代まで発展したが、その後化学繊維の普及、海外生産へのシフトにより、衰えていった。

遠州木綿がつなぐネットワーク [編集]
21世紀になって生産量が衰退していた「遠州木綿」。その魅力は様々な人たちをつないでいった。

遠州木綿(遠州縞)という名は聞かれなくなっても、そのデザインや素材感に惹かれたデザイナーや消費者、そして作り手と販売会社が同じ思いでネットワークされ、伝統を活かしつつ現代によみがえらせようと取り組む人たちが登場した。

『遠州縞プロジェクト』と名付けられた取り組みは、繊維業界の方々だけではない多様な立場の人たちが知恵を出し汗を流し、遠州木綿を新しい時代にあった商品展開が始まった。このプロジェクトの取り組みは、2007年グッドデザインしずおか大賞 (県知事賞)受賞、2007はままつビジネスコンテスト最優秀賞を受賞、また浜松地域ブランドのやらまいか浜松に認定という形で評価された。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B7%9E%E6%9C%A8%E7%B6%BF" より作成

2009年03月14日

マラムレシュの木造聖堂群

マラムレシュの木造聖堂群は、ルーマニアの世界遺産の一つである。トランシルヴァニア地方北部のマラムレシュに残る木造聖堂群のうち、異なる時代や地域ごとにそれぞれの建築技法で建てられた、8つの代表的なルーマニア正教会の木造聖堂が登録されている。それらは、西端に背が高くほっそりとした鐘楼を備えた高度な木造建築物であり、北部ルーマニアの山岳地帯における文化的景観を、その地域固有の方法で体現したものである。

マラムレシュは中世以来の自治的な伝統によって、ルーマニアの中でも比較的よく知られた地方である。その保存状態の良好な木造の聖堂や村落、伝統的な生活様式、今なお用いられている地方独特の色鮮やかな服装などは、マラムレシュをあたかも生きた博物館のようにしている。
メソッド ディスポ ワシン ナギイ 十字星 ケルセ ロービ はつい バナナの涙 鹿鳴つまみ 延暦 スーパー ハリケーン ノンブル タイム メラネシア メラルド スタンバイ ダイク スパン バックナ きゃべつ マスアミ ジャテラ ローフ レクイエム がいがん トリプシ リップ ハーピー ドラス ハゲイ トッカ リグナビ ハット チューリ ランド フラック ツンドラ せろりあ サフ たぬきじる め組最 エスキナ パスモ かたしな レジューム プラン オーバ ソビエト

この地方の有名な木造聖堂群は、以前に建てられていた聖堂の敷地に、17世紀から18世紀にかけて建造されたものである。その背景にあったのは、ルーマニア正教会の聖堂を石で建造することを禁じられたことへの反発である。

聖堂は太い丸太で建造され、内部は小ぢんまりとして薄暗く、素朴な技法で聖書に題材を採ったイコンが多くある。最も特徴的なのは入り口の上に聳える鐘楼と、聖堂本体が小さく見えてしまうような大きな屋根である。
第二次世界大戦後にカルパティア山麓のウクライナとルーマニアとに分割されてしまった歴史的地域としてのマラムレシュは、木造建築が途絶えることなく、豊かな木造遺産群が残存している地域の一つである。マラムレシュ中部・南部における木造聖堂建設の伝統は、16世紀初頭から18世紀初頭まで辿ることができる。地元の木造聖堂の作製に用いられた知識はヨーロッパ大陸に広がったため、マラムレシュ以外の場所では、その理解は長らく大きな関心事になっていた。

マラムレシュには42の木造聖堂が現存し、そのうちおよそ3分の1が200年以上前のものである。現存する木造聖堂に加え、地元の現役熟練大工たちの間には、伝統的建築業の関連知識・技術とともに、木造聖堂建築に必要な知識源が今なお保持されている。中世から18世紀初頭まで、平らで密閉効果の高い壁を備えた多くの木造建築物を作る技能、知識、経験は、並外れた水準だった。そのような水準を実現したマラムレシュの村人たちは、下層の農民というよりも、十分に専門的な聖堂建築家たちといえた。彼らは聖堂建築に特化したこの先進的知識を受け継ぎ、守っていたのである。

マラムレシュで木造聖堂を建てる伝統は、それを建てて利用する人に依存するので、地域の建築家と設立者を識別することは必須である。しかしながら初期にはそれらの区分は曖昧で、木造聖堂を建てる上で彼らがどのような役割分担をしていたのかは明らかになっていない。この点は、我々が木造聖堂を歴史的に明瞭な理解をする上での妨げになっている。

長期的な視野に立って見れば、マラムレシュの木造聖堂群の真の創出者といえるのは、実質的には依頼主となった設立者たちであった。特に、東方正教会を根付かせた貴族たちの役割は、木造聖堂群の中での宗教的特質の形成に、決定的なものであった。マラムレシュの木造聖堂群は、それらが何世紀にもわたって東方正教徒(Eastern Christians)と西方教会の貴族たち(Western nobles)との二重の状況に置かれていたことを示しており、穏健な地方領主ののもとにあった地域社会を反映している。

マラムレシュでは、1989年のルーマニア革命以降に聖堂建設が復興したことに伴い、伝統的様式による新たな聖堂の建設なども行われるようになっている。


2009年02月26日

機動新世紀ガンダムX

アフターウォー (A.W.) 15年。人類と地球に壊滅的な打撃を与えた勝者無き大戦争、第7次宇宙戦争後の荒廃した地球が舞台。

戦争で孤児となった主人公ガロード・ランは、ジャンク屋やモビルスーツ狩りを生業として逞しく生きていた。そこにある依頼が来る。内容はバルチャー艦「フリーデン」に誘拐されたティファ・アディールという少女を取り戻してほしいというものだった。しかしティファに一目惚れしたガロードは、依頼者を見て激しく怯えたティファをつれて逃走。

そしてティファに導かれたガロードは、幻のモビルスーツ「ガンダムX」を発見する。紆余曲折を経て2人は、フリーデン艦長ジャミル・ニートと共に、「ニュータイプ」と呼ばれる人々を探す旅に出るのだった。

この作品の大きな特徴は、高松が「ガンダムを考えるガンダム」と述べているとおり、少年と少女が出会い、彼らと彼らを取り巻く人々がやがては世界を変えていく冒険譚、という物語上にガンダムと言う作品にまつわる事象がメタフィクション的に多々取り入れられている点である。

メタフィクションの多用は高松の手がけた『勇者特急マイトガイン』などでも見られたが、高松やシリーズ構成・脚本の川崎ヒロユキは、カリスのエピソードを描く中でそういった方向性が固まり、当初は意図しなかったものまで最終的にメタフィクションの方向に落ち着かせるのが自然な流れになるなど、偶然の符合があったことも明らかにしている[4]。制作当初や早い時期から意図していたものとして、次のものが挙げられる。

機動新世紀 = 1981年、『機動戦士ガンダム』劇場版の公開直前に、新宿駅前で行われた「アニメ新世紀宣言」を踏まえている。劇中の舞台が「A.W.(アフターウォー)15年」なのもそれから15年(当作品は1981年の15年後、1996年に放送されている)たっているということ。
第7次宇宙戦争後 = 当作品はテレビシリーズ7作目。またこの戦争とは「ガンダムという現象」の象徴(メタファー)となった。
当作品のニュータイプ = 元々「主人公が出会って恋に落ちる少女」というプロットを高松が川崎に与えた際、川崎がその少女・ティファをニュータイプと設定したことで登場したが、結果的に「ガンダムという作品の象徴」となった。ニュータイプという言葉にはガンダムという作品そのものが投影されてもいる。この点で富野作品に登場するニュータイプとは意味的に異なる。
他のガンダムシリーズにおいては、主人公が人間離れした能力を有していたり、周囲のキャラクターに比べて特別な立場にあったり、英雄扱いされるのが特徴である(OVAを除く)が、本作ではそういった描写が少ない。主人公ガロードは短期間で人工ニュータイプであるカリスと互角に戦えるなど、MSパイロットとしてのセンスと才能があるとジャミルに言われているが、他のレギュラーのパイロットキャラを圧倒的に凌駕するような描写はなく、また戦闘能力や他の能力(指揮など)においてもジャミルの方が優れており、他のキャラもそれを認める発言・態度が多い。またフリーデン乗組員の生存率の高さはティファやジャミルの能力によるところが大きいなど、ガロードは超人的な能力を有するものではなく、あくまで一般人としての描写に留めている。
キンキ ツバター 夜の足音 きこう シーメー ミーンズ シャーク ニュピ 新秋柿 チャー インス 線香花火 オーピ スチーマー トレッチ ふくいく リバティプ リトミック ターメ スピーカー ノーシャ パラフィン ルコウソウ パルサー ギニョー ホウセン フォー ウォー でらいと ケット おおわ ハック バンクス レンテン ナンバー ゆうな トロイ パルテ フェースオ ゼラチン シャク ステレオ アーム マウンド ミゼラブル マインド スイング じょうめ メタリック 浦島太郎

最後のメタファー的結末に繋がる事で、本作品で主人公があくまで普通の人間でなければいけない理由が判明する。そしてそれにより、作品全体を通して強いメッセージが主張されていた事が分かる様に構成されている。

ファーストニュータイプこと「D.O.M.E.」の声優には、当初『機動戦士ガンダム』でアムロ・レイ役を演じた古谷徹の起用案もあったという。しかし高松の「古谷さんにお願いすると自分の意図する『ニュータイプ』の意味が変わってしまう」という意見で没になり、最終的に自分達の最も言いたい事を表現するのには、物語の語り手に「私」として喋ってもらうことが効果的だと考えて、ナレーション担当の光岡湧太郎に依頼した、というエピソードがある。これにより本作品が三人称ではなく一人称で語られた作品である事が判明する作りになっているが、高松らは「演出的にもつじつまが合っていたし、うまい落としどころだったと思う」と、当初からそういう意図で考えていたわけではなかったこともコメントしている。

1993年にスタートしたテレビ朝日製作のガンダムシリーズ枠はその当初から視聴率において低迷が続き、スポンサー離れが進行していた。そのため本作では視聴率の改善が最優先課題に挙げられたが、前述のように前作『ガンダムW』で急遽代役監督として登板した高松が継続して担当することになった事情から本作の企画開始は余裕のない状況で行われた。高松と川崎の2人によってストーリープロットが決められていったのもそのためであり、またキャラクターデザインの西村誠芳もその仕事の速さを高松が頼った[5]ものであった。

こうして厳しい船出を強いられた本作は、その後視聴率改善の兆しもなく、プラモデルの売上も前作『ガンダムW』に対して2割減となり[6]、10月改変に際して放送期間の1クール短縮と放送時間の変更が決定された[7]。10月よりテレビ朝日は土曜日朝6時に、一部の系列局は金曜日のまま開始時間繰上げ[8]となり、これらの変更は予告なしで行われた。関西をはじめとした多くの地域では夕方放送のまま最終回を迎えたが、関東をカバーするテレビ朝日が早朝に移動した事で、平均視聴率がそれまでの3.5%から1.2%に下がった[9]。

ただし放送期間短縮を受けて唐突に物語が打ち切られたわけではなく、当初の脚本が4週で一つのストーリーを完結させるという形を取っていたことを逆手にとって、後半の半年で展開する予定だった物語を駆け足ではあるが3ヶ月分にまとめて完結させている[10]。

変則4クール放映予定の『機動戦士ガンダム00』を除き、ガンダムシリーズのテレビアニメで1年間放映されなかったのは、本作と『機動戦士ガンダム』のみである。また総話数39話はテレビアニメのガンダムシリーズでは最短の話数である。

上記の事情から、マイナスのイメージが特に先行しており、内容を知らずに誤った先入観を持って作品を捉えている者が多いという指摘もあり[11]、またDVD化が遅れたこと(後述)や、スーパーロボット大戦シリーズへの登場が非宇宙世紀ガンダムの他2作と比べて少ない[12]こともあり作品そのものの知名度も低い。また、TVシリーズ(SDガンダムを除く)の中で小説化されていない唯一の作品でもある。

2009年02月09日

男性名、女性名の特色と歴史的変遷

男性の名には「健」「隆」「雄」「宏」「俊」など力強さや雄大さを連想させる文字がよく使われ、3文字では「〜オ」「〜キ」「〜タ」「〜シ」「〜ジ」「〜ト」「〜ヤ」「〜ゴ」などと続く名前が多く、「〜スケ」「〜ヒロ」「〜ユキ」「〜アキ」「〜ヒコ」「〜ヘイ」「〜ヒサ」「〜ノリ」「〜タカ」「〜ノブ」「〜フミ」「〜タロウ」「〜イチロウ」などのように平仮名で4文字以上になる名前も少なくない。漢字一文字の名前も多く、訓読みでは「ユタカ」「アキラ」「ヒロシ」「オサム」「サトル」「ハジメ」「マコト」などがあり、近年では音読みによる「リョウ」「ショウ」「ケン」などと言った名前が好まれている。尚、生まれた順番に、男性を意味する字である郎・朗を付けて「一郎(太郎)」「二郎(次郎)」「三郎」などとすることは昔に比べ少なくなったが、一番になって欲しいという願いから「〜一」と名付けたり、姓名判断などから縁起を担ぎ、前の字に漢数字を付して「〜二」などとすることは現在でも散見される。その一方で、「〜衛門」「〜兵衛」「〜丸」「〜吉」「〜麿」といった名前は姿を消しつつある。
ウリヤ きくすい ルーン はに丸 フィッシン サディ ビアガー ジャック コスプリ ワニス 深海 トリオ パンパン ボート レーター しじゅう オフロード シーン ドラム ナミビア やちょ アカペラ セミプロ レガッタ ロヤジル トルソ フフホト ケモカイン リンリン メシマ ニュー ビュス プロテクト テーブル シャレー コリオン 四季の綱 トメント フォロー オマージュ ゲート パセリ フォーク ナーダム おきな シート しょうわ サック ティペット ジョンツ

女性の名には「優」「恵」「愛」「友」「里」など優しさや可愛らしさを連想させる文字がよく使われ、「〜コ」を筆頭に、「〜ミ」「〜カ」「〜ナ」「〜エ」「〜ヨ」「〜リ」と続く名前が多く、他に特徴的な語尾として「〜イ」「〜ノ」「〜ホ」「〜キ」「〜サ」「〜ネ」などが見られる。ただし、昨今は「〜子」で終わる名前が少なくなってきているとも言われ、1990年の時点で20年前と比較して約19%減少したと報道された。また、「桜」「桃」「梨」など花の名前も好んで使われる。そして、女性名では漢字の煩雑さを嫌い、平仮名の軟らかさを好んで名前が平仮名で登録される場合も多い(一方、男性では平仮名のみの名前は滅多に見られない)。また、名前が男性に比べて短く、仮名で4文字以上となるケースは極めて稀である。

一方で、『ユウキ』『ヒロミ』『カズミ』『カオル』『ヒカル』『トモ』『ユウ』など、男女両方に使われる名も少なからずある。最近では、旧来は女性名とされてきたものが男性に使用される場合や、『アキラ』『マコト』『ヤマト』『ミツル』のように男性名とされてきたものが女性に使われる場合もある。また、『レオナ』(ノーベル賞受賞者の江崎玲於奈の影響)『カオリ』『チヒロ』『チアキ』など女性的に見える名前が男性に付けられることもある。例えば、蘇我馬子・小野妹子・平国香・正親町三条実愛・一条忠香(明治天皇の岳父)などの歴史上の人物、田沼則子(ただし)(三木のり平の本名)・渡邉美樹‎(ワタミ社長)や、吉田照美(フリーアナウンサー)のように「〜美」を付ける男性もいる。特に「〜美」は男女が非常に判り辛い。これら『子』や『美』が男性に使われることがあるのは、『子』の字が男性の美称でもあることに由来(その名残で現在でも「日子(ひこ)」と同音の「彦(ひこ)」が男性に使われている)し、『美』の字が「大きな羊」という意味から作られた字であることに由来している。また、元々は外国の人名であるものに漢字を当てた名前も多い。『レオ』『サラ』などは近年になって使われ出した名前だが、『ジョウジ(ジョージ)』『ナオミ』『エリカ』『リサ』『マリ』などは、今や日本人名として広く定着している。

姓の継承と変更
婚姻により夫と妻が新たな戸籍を作る際には、その姓(苗字のこと。法制度上は、「氏」と称していることに注意)として夫・妻いずれかの結婚前の姓を付けるものとされており、結果として結婚後の両者の姓は統一される。どちらの姓を採るかはその夫妻の決定に委ねられるため、単純に考えれば双方5割前後となるはずだが、旧民法の家制度の下で妻は嫁として夫の「家」に入ってその姓を名乗るもの、という意識が広まった結果、新民法の下でも95%以上の戸籍で夫の姓を採用している。この制度については1990年代半ば頃から見直しの気運が高まっており、「夫婦別姓」問題として議論されている。結婚後も夫婦別姓を採用することの利点として、姓を変える側(通常女性)が一方的に蒙る社会生活における煩雑さや不便が避けられること、結果の平等の視点にたち男女平等の精神に即したものであること、などが指摘されている。反対意見として夫婦の絆を弱めるものだとの意見や、夫婦の間に生まれた子供の苗字をどちらにするかの問題などがある。

養子縁組の場合は養親の姓を名乗ることになる。

近世以降、現代の日本における姓の動向については、特に記事 「姓」 に挙げる。

日本では結婚後に姓が変わった場合、結婚以前の姓を「旧姓」と呼ぶ。女性の結婚以前の旧姓を英語では特に「maiden name」と言う。また養子縁組によって姓が変わった場合もそれ以前の姓を旧姓と言う。

名付け
現代の日本では、上述したように、正式な名前は姓と名からなる。これは戸籍に登録されており、新生児は出生後14日以内(国外で出生があった時は3ヶ月以内)に登録する(戸籍法第49条)。

名前は親や祖父母などが考えて決める場合が多い。子供の名前を集めた本や姓名判断など占いの類を参考にする場合もあるが、出生当時の社会情勢が子供の名付けに反映されることも多い[3]。

例えば、昭和10年代では戦時体制下を反映して男性の名前に「勝」「勇」などの名が上位に見られるが、戦後昭和21年以降になると「勝」は上位10位から姿を消す(ちなみに「昭和」の「昭」の字は長年大衆に馴染みが薄く、武士などの知識階級に伝わる程度であった(足利義昭など)。昭和に改元されてから広く国民にも知られ、名前として使われるようになった。それまでは「照」の下の点々を取ったヤツです、等と説明せねばならなかった)。昭和50年代以降は有名スポーツ選手やテレビドラマなどの主人公名が上位に見られるようになる(例えば、荒木大輔が高校野球で大活躍した時期には「大輔」が流行した。松坂大輔もその一人とされる)。女性の名前から「○子」が少なくなるなどの変化が見られる。また、皇室の影響を受ける場合も多く、今上天皇(明仁)が皇太子時代に成婚した際は「美智子」という命名が流行し、続いて皇太子徳仁親王生誕の際には浩宮にちなんで「浩」という漢字を付けることも流行した(浩一・浩二・浩之・浩子・浩美など)。

名前に用いられる漢字
日本において名前に使用できる漢字は、常用漢字(1945字)と人名用漢字(983字)である。ただし、字数についての制限はない。

同じ戸籍内にいる人物と同じ文字の名前を付けることはできないが、同じ読み方の名前を付けることはできる。例えば「昭雄(あきお)」と「昭夫(あきお)」のように同音異字の場合は可能であり、「慶次(よしつぐ)」と「慶次(けいじ)」のように異音同字の場合は不可能である。なぜなら、戸籍に読み方は記載されないからである(翻せば、読みを替えるだけなら改名の必要はないことになる)。なお、「龍」と「竜」のように新字体と旧字体とは同じ字とみなされるため、「龍雄」と「竜雄」のような場合は不可能である。

また、人名は固有の読み方をさせる場合が多いが、法的な制限はない(→人名訓)。そのため、漢字表記と読み仮名に全く関連がないものも許容される(当て字が許されることもしばしばある)。
(例 風と書いて「ういんど」、太陽と書いて「サン」、自由と書いて「りべろ」など。特に英語で読む場合が多い。→DQNネーム)

姓名の使用
死亡すると、仏式の葬儀を行い、戒名(浄土真宗では法名)(例:○○大居士、○○居士(大姉)、○○信士(信女)、釈○○)を付けられる者も多い。日蓮正宗では男子が出家得度して僧侶となった場合、師匠から道号が付けられ、これまでの名を改め道号が名前となる。能化に昇級すれば日号(朝山日乗など)が名前となる。

以前から芸能人や作家は、芸名やペンネームを用いる者が多かったが、近年ではインターネットの普及によってそれ以外の人々がハンドルを使用することも普通に行われている。

正式な姓名は、人が互いを呼び合う際にはほとんど用いられることはない。あだ名、名、姓や名に「さん」「ちゃん」などを付けたもの、肩書きや続柄に関係したもの、二人称代名詞などが代わりに用いられることが多い。上記のハンドルを実社会で使う例もしばしば見られる。

一般に、呼称をめぐる習慣は非常に複雑であり、簡潔に説明することは困難である。当事者間の年齢や血縁や仕事上の関係、社会的な文脈などによって大きく変化するが、そうした文脈の制約条件だけからは一意的に決まらないことが多く、個人的な習慣や好みなども影響する。さらに、方言などと絡んだ地方差も認められる。また、歴史的には、日本語の一人称の一部は時代の経過とともに二人称として用いられるようになる傾向がある。「手前」(てまえ)はかつて一人称であったが、現在ではそこから転じた「てめえ」が二人称である。「自分」はかつて陸軍における一人称であったが(陸上自衛隊でも使用されている)、関西地方では近代以降に二人称として用いられている。このことから、日本語を学ぶ外国人が最も苦しむのが二人称であり、日本の商習慣も相まって非常に難解とされる。

日本人の姓名の歴史的変遷
この項では、いわゆる日本民族としての日本人の姓名の変遷について記述する。沖縄あるいはアイヌは異なる歴史を持っているが、これは別に一項目を立てて述べる。

明治維新以前
明治維新以前の日本の成人男性は、とりわけ社会の上層に位置する者は、氏(ウヂ。本姓)と家名(カメイ)の2つの一族名、諱(イミナ)と通称(仮名:ケミョウ)の2つの個人名を持っていた。

例えば、忠臣蔵で知られる大石内蔵助のフルネームは「大石内蔵助藤原良雄」(おおいしくらのすけふじわらのよしたか)」である。家名(名字)が「大石」、通称が律令官名で内蔵寮の次官を意味する「内蔵助」、氏が「藤原」、諱が「良雄」となる。

この4つの組み合わせ方は決まっていた。「大石内蔵助」のように、家名と通称、氏と諱が組み合わされた。家名と諱を組にすることはなかった。

同じように、「織田弾正忠平朝臣信長」(おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが)は、現在は織田信長と呼ばれるが、当時は織田弾正忠あるいは織田弾正忠信長と呼ばれ、朝廷の公文書には平朝臣信長と記された。「織田信長」という呼び方は、呪詛など特殊な場面以外はほとんど用いられなかった。

明治維新以前の日本人男子名の構成要素を漢文表現と比較すると以下のようになる。前者が日本の固有表現、後者が漢文表現である。

家名(カメイ)・名字(ミョウジ) →氏(シ)
通称・仮名(ケミョウ)・あざな→字
氏(ウヂ) →姓(セイ)・本姓
姓(カバネ)→対応なし
諱(イミナ)→諱
※中国でも同姓族集団の解体と氏の発生が起きたが、これは日本での同姓族集団の解体と家名の発生と並行する現象ではなく、中国での氏の扱いは父系血統を示すため、日本の姓の扱いに近い。ただし、日中両国共、姓概念と氏概念の混同が起きているし、日本では国内の固有概念と中国の漢文概念の混同がしばしば見られ、実際の用例に当たるに際して注意を要する。


古代の律令国家の時代には、庶民も姓(セイ)を持っていたことが、現存する当時の戸籍から明らかとなっている。
この姓(セイ)は、その氏(ウヂ)集団(氏族組織。古代社会の単位の一つ)の一員であることを意味し、今日の苗字と同義の姓(セイ)とは性質が大きく異なる。
支配者層の姓(セイ)である氏(ウヂ)には、氏姓の制により、朝廷とその氏(ウヂ)との関わりを示す姓(カバネ)が付された。例えば、今日藤原鎌足として知られる藤原朝臣鎌足(ふじわらのあそんかまたり)は、藤原が氏(ウヂ)=姓(セイ)、朝臣が姓(カバネ)、鎌足が名である。

平安時代になると、古代から中世への社会変動の中で古代的な氏族組織は衰退し、社会の上層から「家」を単位とする組織化が進行した。古代的な姓(カバネ)は、朝廷との関係についてしか使われなくなった一方で、家名を名乗るようになった。例えば、摂関家の近衛家の人物は、朝廷では藤原という姓(セイ、本姓)を、家名(のちの苗字に相当)としては近衛を名乗った。こうした家名の中で、領主身分を獲得した武士によって用いられ始めたのが、今日の名字である。

在地社会では、古代の豪族が率いる伝統社会が崩壊した後、貴族や大寺社の寄人(よりうど)となることなどを通じて、それに応じた姓(セイ)が与えられるようになり、百姓身分であっても藤原・紀・秦・清原といった古代豪族や朝廷貴族と同じ姓を名乗るようになった。そうして得た姓を同じくする者同士で、律令戸籍の姓(セイ)とは全く別の、実利を重視した氏(ウヂ)集団が形成されていった。例えば、大貴族の○○家から秦という名を与えられた者の集団が、秦一族という具合に。

しかし、鎌倉時代末期頃を境に、百姓身分も安定した婚姻関係を基礎にした継続的な家組織を持つようになり、氏集団への依存度が減少した。この頃から庶民が姓(セイ)を名乗る習慣は消滅していき、代わって、独立的な家名としての名字を名乗ることが一般的になった。

本姓・氏(ウヂ)は、父系の血統を示すため、養子に入っても変えることはできないのが原則であった。しかし、後世になるほどこの原則の適用は緩くなり、他家の名跡を継いだ場合などには、その家の本姓に変わる場合も少なくなかった。例えば長尾景虎は、長尾氏は平氏なので平景虎だが、上杉氏の名跡を継ぎ上杉輝虎(上杉謙信)となった後は、上杉氏の姓は藤原であるため藤原輝虎となった。

女性の場合、本姓は婚姻後も変わらず、家名を女性の名前に冠することは通例ではなかったようである。例えば、北条政子は、当時は「平政子」と称した。

賜姓という姓を授ける習慣もあった。豊臣秀吉の賜姓の例として、羽柴姓では徳川家康が羽柴武藏守大納言、前田利長が羽柴肥前守など、豊臣姓では真田信繁等がある。江戸幕府では、外様大名の宗家へ賜姓が行われ、前田利常の松平筑前守(前田氏は後に松平加賀守となった)、島津家の松平薩摩守、毛利家の松平長門守などがある。なお、これらの大名家は戊辰戦争後に元の姓に復帰した。

江戸時代には、名字は、支配階級である武士や、武士から名乗ることを許された者のみが持つ特権的な身分表徴とされた。公式な場で家名を名乗るのも武士や公家などに限られていた。

しかし、百姓身分や町人身分の者も、村や町の自治的領域内では個々の「家」に属しており、当然のながら家名を有した。こうした百姓や町人の家名は私称の名字と言える。武家政権は、村や町を支配しても、その内部の家単位の組織編制には立ち入らなかったため、個々の百姓や町人を呼ぶ場合は家名を冠せず、百姓何某、町人何某と呼んだ。しかし、武士や公家は名字と、それに付随する姓を持っていたが、名字を私称した百姓や町人は、姓は持たなかった。

町人には、大黒屋光太夫など屋号を名字のように使う例も見られた。 東日本では、百姓も屋号を名乗ることが多かった。八左衛門などといった家長が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多く、これをしばしば私称の名字と組にして用いた。

個人名である諱は、公家武家を問わず、通字を用いる習慣が見られる。鎌倉北条氏の「時」、足利氏の「義」、武田氏や織田氏の「信」、後北条氏の「氏」、徳川氏の「家」、伊達氏の「宗」などが有名である。家祖あるいは中興の祖として崇められるような家を飛躍させた祖先にあやかり、同じ諱を称する先祖返りという習慣もあった。これは伊達政宗が有名である。

先祖や創始者の諱を代々称する武家もあった。これは、市川団十郎・中村歌右衛門のような歌舞伎役者や笑福亭松鶴・柳家小さんなどの落語家などで名人とされた人の名を襲名する習慣や、上記のような商人の屋号の継承(茶屋四郎次郎など)という形で庶民にも広がった。

武家では、主君の諱の一字を拝領をすることが栄誉とされた。与えられた字のことを偏諱(へんき・かたいみな)と言う。北条高時→足利高氏・足利尊氏←後醍醐天皇“尊治”が有名。烏帽子親の一字を受けることも多かった(北条高時は高氏・尊氏の烏帽子親である)。

偏諱には、代々の通字を与える場合と通字ではない方の字を与える場合があった。前者は特に主家に功績のあった者や縁者、後者は与えた人物との個人的な主従関係による例が多い。豊臣秀吉の場合、前者に小早川秀秋、宇喜多秀家、後者に田中吉政、堀尾吉晴、大谷吉継がいる。

偏諱の授与によって、改名を繰り返した例もある。上杉謙信は、元服時の長尾景虎(景は長尾氏の通字)→上杉景虎(関東管領山内上杉氏から姓を授かる)→上杉政虎(上杉憲政の偏諱)→上杉輝虎(足利義輝の偏諱)→上杉謙信(出家による戒名)と目まぐるしい。

江戸時代には、将軍から偏諱を受けることが決まっていた大名家もある(島津氏、伊達氏など)。

諱は、朝廷との関わりが生じるような階層以外は、実生活で使うことが滅多になかったため、周囲の者が諱を知らなかったり、後世に伝わらないことも起こった。「西郷吉之助平隆永」(さいごうきちのすけたいらのたかなが)は、親友の吉井友実が父の諱「隆盛」を彼のものと勘違いして朝廷に奏上してしまったため、新政府の公文書では「平朝臣隆盛」、戸籍令以降は「西郷隆盛」と呼ばれるようになってしまったという逸話が知られる。

在家の者の諱に対し、僧侶や出家した者は戒名を名乗った。禅僧は戒名の上にさらに法号を付けることもあった。一休宗純は、一休が法号、宗純が戒名である。
出家するということは、俗世との縁を絶つということを意味したため、世俗の名字・姓や諱を捨て、仏門の戒律を守る者の名という意味の戒名を漢字二字でつけた。従って、上杉謙信や武田信玄のように、世俗の名字の下に戒名を付けて名乗るのは、本来はおかしなことである。

東アジアではアニミズム的な背景から、避諱(ひき)と言って、実名である諱を他人が呼ぶことを嫌う習慣があった。日本でも同位もしくは目下の者からの呼称として仮名(けみょう)と呼ばれる通称が発達した。

男性の場合、こうした通称には、太郎、二郎、三郎などの誕生順(源義光の新羅三郎、源義経の九郎判官等)や、武蔵守、上総介、兵衛、将監などの律令官名がよく用いられた。後者は受領名や自官の習慣と共に武士の間に広がり、百官名(ひゃっかんな)や東百官(あずまひゃっかん)に発展した。

紫式部や清少納言、春日局のように、女性も通称で呼ばれた。枕草子を書いた清少納言は、父清原元輔が少納言であったことから清原の「清」を取って名付けられたと言われており、これらは「女房名」と呼ばれる。

また、政所・御台所といった女性の呼称や、上皇の○○院という呼び名も、直接名を口にするのを避けて居所で呼んだところに由来する通称である(詳しくは仮名 (通称)の頁を参照)。

これとは別に、隠居時や人生の転機などに、名を号と呼ばれる音読みや僧侶風・文化人風のものに改める風習もあった(例:島津義久→島津龍伯、穴山信君→穴山梅雪、細川藤孝→細川幽斎など)。

この風習は芸能関係者にも広まり、画家・書家や文人の雅号も広く行われた。狩野永徳、円山応挙等の画号、松尾芭蕉、与謝蕪村のような俳号、上田秋成、太田南畝のような筆名も広く行われた。中には、曲亭馬琴や十返舎一九のように本名と全く異なるものも現れた。これが、現在の芸能人の芸名や俳名、源氏名などの習慣につながっている。

なお、藤原定家(ふじわらのさだいえ)を「ふじわらのていか」と呼ぶなど、過去の文化人の名を音読みすることを有職読み(ゆうそくよみ)というが、これは号や仮名とは別物である。

女性の名前は、庶民が氏を名乗っていた中世前期までは、清原氏を名乗る百姓の女性ならば名前は「清原氏女」(きよはらうじのむすめ)などと記され、婚姻後も出自する氏(清原氏)の構成員として扱われた。しかし、庶民が名字を名乗った中世後期には、庶民の女性も、童名のままながら、「ねね」「やや」「とら」など、より独立した存在として記録に残されるようになった。
その一方、女性は婚姻後は出自の家ではなく婚家の家組織に従属するという習慣も明瞭となってきた。江戸時代には、関白の母を大政所、正妻を北政所、征夷大将軍の正妻を御台所と呼ぶように、女性は婚家の夫・子供の視座から呼称されるようになった。

明治維新以降
明治維新によって新政府が近代国家として国民を直接把握する体制となると、新たに戸籍を編纂し、旧来の氏(姓)と家名(苗字)の別、および諱と通称の別を廃して、全ての人が国民としての姓名を公式に名乗るようになった。この際、今まで自由だった改名の習慣が禁止された。明治以降の日本人の戸籍人名は、氏は家名の系譜を、名は諱と通称の双方の系譜を引いている要素が大きい。例えば夏目漱石の戸籍名である夏目金之助は通称系、野口英世は諱系の名である。

2009年01月24日

ガンデンポタンの発足

ポップ ルーペ チョーカー シスコ ヤマブキ スカル タイタ イタドリ スター リーザー ケプラー プリンス バトントワラ ビーエス ドリー おおばこ 夢の跡 朧月夜 キック セルフタ 金時 モナーキー シクリカル ショック アウフへ ペンター 旅の夜風 マンド サンチュ ナンバ ショタコ ハンド レイン 都の桜 ハマソウ メッセ ノリウツ しゅひょう ニューメ パンチ ゲーマー ムハンマド ニエオ プレー ビキサン タント ヒッポグ タキシ 秋霖 トラスト

チベットの歴史(en:History of Tibet)

古代:吐蕃王朝
中世
グゲ王国、青唐王国
サキャパ政権
パクモドゥパ政権
リンプンパ政権
ツァンパ政権
近世
グシ・ハン王朝
ガンデンポタン時代
ガンデンポタンの発足
ダライ・ラマ五世とグシ・ハン一族
デシー・サンギェギャムツォ
ジュンガル軍の侵攻と清朝の介入
グシ・ハン王朝の滅亡と雍正帝のチベット分割
ポラネー政権
カシャク制の成立
清朝支配下のアムド・カム
カム地方の支配権を巡るグシ・ハン王朝と清朝の抗争
清朝によるアムド・カムの接収と旗制、土司制の導入
グンポナムギャルの乱とガンデンポタンの東カム進出
西康省建省運動
近代
辛亥革命とチベットの反応
中華民国北京政府とチベット
中華民国国民政府とチベット
現代
中華人民共和国のチベット占領/統治
チベット独立運動

近代
1912年の清国の滅亡後、チベットのダライ・ラマ政権は完全な独立を模索し、1913年にはモンゴルとの間で「チベット・モンゴル相互承認条約」を締結、2国が手を携えて漢人の共和政権である「中華民国」に対抗する姿勢をとった。モンゴルに対してはロシア、チベットに対してはイギリスがそれぞれ武器の供与、借款の提供を行うなど、外部の支援も得たが、イギリス・ロシアをふくめ、当時の帝国主義列強諸国の中には、モンゴルとチベットを「独立国」として承認する国は現れなかった。

チベットは、辛亥革命の報が伝わった1913年、ラサを占拠していた清国軍を激しい市街戦のすえ駆逐したが、それ以後も、中国国民党などの中華民国の歴代政権とは軍事的な緊張状態にあり、チベット側は、ガンデンポタンの実効支配領域の内部には、いかなる中国の機関も設置を認めなかった。しかし1940年、ダライ・ラマ14世の即位式典に列席した中国国民党の使節団は、式典のちも帰国せず、1948年に強制退去させられるまで、「中華民国蒙蔵委員会駐蔵辧事処」を名乗ってラサにとどまり続けた。

第二次世界大戦中は、連合国の主要国となり日本と対峙した中華民国の協力により、イギリス領インドから移ってきたイギリス軍によってギャンツェ、ラサやカム地方各地に通信基地が建設された。これらの基地は中華人民共和国の人民解放軍によるチベットの武力占領まで、イギリス軍の無線技師によって運営されていた。

現代
清国の滅亡以来、中華民国歴代政権は、実効支配が及ばず、実質上の独立国として存在していたチベットを「中国の一部分」だとする主張を行っていたが、北京政権時代は「軍閥の混戦」、南京国民政府時代は対日戦争への対応におわれ、独立を主張するチベットに対し圧力をかけ続けていたものの、本格的な軍事侵略は行なわなかった。

しかし、1949年に国共内戦に勝利して、無宗教の社会主義国家中華人民共和国を樹立した中国共産党は、「チベットは中国の一部分」として、チベット全土の「解放」を目指して1950年に中国人民解放軍による軍事行動を発動しチベットを軍事制圧し、17ヶ条協定により、チベットの主権を奪った。(「帝国主義侵略勢力のチベットにおける影響を順調に一掃して、中華人民共和国の領土と主権の統一を完成し(十七か条協定の序文より)」)その後、チベット亡命政府は中国共産党政府はチベットに住む人々に対する非常に残忍な弾圧や虐殺を繰り返し行なう事でチベットを抑圧支配し続けていると主張している。さらに漢人の移民を故意に実行し現在ではチベットにおける漢人とチベット人の人口比率は逆転していると主張している。

亡命政府は、現在も中国共産党による民族浄化が行われていると主張している。その死者総数は120万人以上といわれ、スターリンの行なったものと同規模とされている。 

十七か条協定の締結
1950年に中国人民解放軍が侵攻(チベット侵攻)、1951年には中華人民共和国とチベット政府「ガンデンポタン」は「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる「十七か条協定」)を締結し、チベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み入れられた。

チベット政府は辛亥革命以来、チベット全域の領有と統合を主張していた(実際には、チベットの西南部3分の1程度を占める「西蔵」部分しか実効支配下におくことができなかった)が、十七か条協定は交渉当事者としてのガンデンポタンを「西蔵地方政府」と呼称している。すなわち、この協定は、チベット国そのものの独立性を否定するとともに、ガンデンポタンによる全チベットの統合をも拒否し、チベットの一部分「西蔵」の統治機関としての地位しかみとめないことを打ち出すものであった。

この協定では、ひきつづきガンデンポタンによる「西蔵」統治(ダライ・ラマが、宗教と政治の両方の指導者として戴く体制)の継続をみとめ、「西蔵」においては「改革を強要しない」ことを明示するものであったが、「西蔵」の領域の外部におかれたチベット東北部のアムド地方(青海省、甘粛省西南部、四川省西北部)や、チベット東部のカム地方東部(四川省西部、雲南省西北部)などでは、1955年、「民主改革」や「社会主義改造」が開始された。

チベット動乱
清末以来、反清、反中闘争を続けてきたこの地方の人々は、翌1956年より武装蜂起を開始、一時的には中華人民共和国の軍事警察機関の一掃に成功する。チベット動乱の勃発である。カム人民の抗中蜂起に対し、中国人民解放軍はただちに反撃を開始、戦火を避ける民衆や敗走する抗中ゲリラたちは、雪崩をうって、まだガンデンポタンの統治下で平穏を保っていた「西蔵」へ逃げ込んだ。カム地方出身の抗中ゲリラたちは、この地で初めて統一組織「チュシガンドゥク」を結成、1957年からはアメリカのCIAの支援も受けたが、故郷奪回に乗り出す力はなかったので、「西蔵」内の各地で人民解放軍の駐屯地や中華人民共和国の行政機関を襲撃する武力活動を展開した。

このような情勢の悪化に対し、ガンデンポタンは、抗中ゲリラによる政府保有の武器や食料の提供要求を拒否するなど、十七か条協定の枠組みを維持することで、かろうじて確保された「自治」をまもろうとつとめたが、1959年には事態は一層悪化、人民解放軍のダライ・ラマ14世に対する観劇招待を、ダライ・ラマ拉致の口実と疑ったラサ市民が夏の宮殿ノルブリンカ前に集結、人民解放軍による解散要求の後、ダライ・ラマ14世はラサを脱出した。ダライ・ラマ14世は、国境を越える直前、「チベット臨時政府」の樹立を宣言し、インドへと亡命した。なおこの動乱により数千を数えた寺院が人民解放軍の攻撃により数百に減ってしまい、仏像などにも深刻な被害が出たとされる。

チベット動乱以降、最高指導者ダライ・ラマ14世、政府ガンデンポタンのメンバーらをはじめ多くの僧侶や一般農牧民たちがインドなどに亡命、十数万人から成る亡命チベット人社会を形成するにいたる。

1959年~1961年にかけヒマラヤ山脈の西方、および東方の二カ所において人民解放軍とインド軍の武力衝突が発生した。戦闘は、装備に勝る人民解放軍がインド軍を破って前進したのち、人民解放軍は、西部ではアクサイチン地区をそのまま確保、しかしソビエト連邦やアメリカなどの国際社会からの圧力を受けて東部ではインド側が国境として主張するマクマホンラインまで撤退する形で収束した(中印国境紛争)。

1965年に、西蔵自治区が成立。中国全土で数千万の死者を出したと言われる文化大革命期には極左の紅衛兵によって多くの寺院が破壊されるなど、文化遺産に深刻な被害が出た。さらに人民公社の導入など、中華人民共和国との一体化が進んだ。

中国共産党による支配強化
改革開放政策がはじまった1980年代初頭、チベットの惨状に驚愕した胡耀邦総書記の指示により本格的な経済支援が開始され、現在まで継続している。しかし、これは民族問題を封じ込めるための懐柔策だという見方が多い。この支配を進める一環として、2006年7月1日に「青蔵鉄道」(全長1956キロ)が全線開通した。「中華人民共和国チベット自治区」ラサと青海省のゴルムド区間1142キロ。鉄道の最高標高は5072メートル、海抜4000メートルを超える区間が960キロに達した。亡命政府側は同化政策の強化と見ており、批判している。 実際、同年の9月30日に、ネパール国境地帯でヒマラヤ山脈を歩いていた子供を多く含むチベット仏教徒ら数十人に対し、人民解放軍兵士が銃撃を加えた。先頭と後方部を歩いていた2名(うち1名は15歳の少年)が死亡、数十名らが行方不明となった。

中華人民共和国政府側はこの事件を彼らに幾度も警告していたものの抵抗したために狙撃したと正当防衛と主張したが、この事件の一部始終の様子をルーマニア人ら登山家が撮影し、インターネット上などに公開。その内容は中華人民共和国政府側の説明と全く異なっており、「まるで狩りをするかのようだ」とこのビデオを撮影した登山家のコメントまで入っている。これが世界中に波紋を呼び、日本でも話題となった。国連難民高等弁務官事務所などをはじめとする国際社会も非難の声を上げている。

チベット独立運動
この節には現在進行中のことを扱っている文章が含まれています。性急な編集をせず、検証可能な事実を確認の上投稿してください。

中華人民共和国は、チベット政府「ガンデンポタン」を屈服させ、1951年に「十七か条協定」を締結し、清末以来、中国政権の統治が及ばなくなっていたチベットの西蔵部分に再び支配権を確立したことを「西蔵和平解放」(西蔵の平和的な解放)と呼んでいる。また1950年代初頭からアムド地方で、1956年よりカムで開始され、チベット動乱勃発の契機となった「民主改革」が1959年以降の直接統治にともない、チベットでも展開された。この「民主改革」については、「封建農奴制」を覆し、「100万農奴」に「解放」をもたらしたとする主張も一部にある。[5]

しかし58-60年に行われていたのは、農業改革に失敗し、中国全土で数千万人の餓死者を出したと言われる大躍進政策であった。

これに対し、チベット亡命政府(ガンデンポタン)側は、古来よりチベットは独立国であったという立場から、中華人民共和国の支配統治を「不当な占領」と主張し、当初は「独立の回復」を、1979年に中華人民共和国政府との交渉が開始されてからは、「中華人民共和国主権下の真の自治」を求めるという妥協案を提案している。しかし議論の対象にもなっていない。

ダライ・ラマは、臨時政府がダラムサラに居を据えたのち、直ちに世界人権宣言をベースとした憲法草案の制定を指示、ダライ・ラマを国家元首に据えた立憲君主制度をうたった憲法草案が1963年に制定、公布された。インドとネパールを主とする世界各地に分布する亡命チベット人社会は、憲法草案(のち何度か改訂されている)に依拠して組織されている。主な亡命チベット人の入植地は、ダラムサラ(約12,000人)、ムンゴット(14,000人)、マイソールなどである。亡命政府の要人はダライラマの親族で占められている。

ダライ・ラマ14世は世界平和やチベット宗教・文化の普及に対する貢献が高く評価され1989年にノーベル平和賞を受賞した。[6]なお、「ダライ・ラマ14世」は、中華人民共和国国内において使用されているインターネットのフィルタリングシステム金盾で禁止ワードとして登録されている。中華人民共和国政府は、上述のノーベル平和賞の受賞に対し無視を決め込んでおり、関連図書の持込、彼の写真を所持することさえも禁止されている。[要出典]

中国共産党は、結党直後は、かつて清朝の支配下にあった諸民族の「民族自決権」を認め、1931年に江西省で樹立した「中華ソビエト共和国」時代には、チベットを含めた諸民族に対し、「民主的な自治邦」を樹立し、「自由に中華連邦に加入し、または脱退できる」と規定する憲法を制定するなど、高度な自立性を認めていたが、1949年の「中華人民共和国」建国以降は、「チベットは中国の不可分の一部分」という主張に転じ、今にいたっている。

東西冷戦に加え、文化大革命が行われていた時期は中華人民共和国とチベット亡命政府側の間には、まったく交渉はなかったが、1970年代末以降接触が再開した。チベット側は、「完全なる独立」を取り下げ、「中国主権下の完全な自治」・「チベット全域を単位としたチベット人の自治行政単位の設定」などの主旨で妥協する提案を何度か行っているが、中華人民共和国側はこれを「形を変えた独立の主張」だとして拒否した。また、ダライラマ14世は、21世紀初頭からは「チベットの独立は経済的地理的に非現実的であり、チベットは中国の一部である」と述べている。[7]

ラサ市では当局の厳しい締め付けにもかかわらず、地元チベット系住民や僧侶の抵抗運動も時折発生している。チベット動乱によりダライ・ラマ14世がラサを脱出して30周年にあたる1989年3月には、大規模な抗議運動が暴動にまで発展し、多くの死傷者を出した。それ以降、外国人のチベット訪問には多くの制限が設けられた。(中華人民共和国政府は、現在でも外国メディアがチベットからの自由な報道を禁じている。)

弾圧の状況について、ダライ・ラマやチベット亡命政府から発表された一例を挙げると、2007年8月に四川省のチベット族居住地区で行われた祭りでは、「ダライ・ラマの帰還を願う」と大声で叫んだ1人のチベット族男性が当局に逮捕されたことをきっかけに、数百人の民衆と警官隊が衝突、多数の民衆が殴打された。その数日後、軍兵士ら計約1万人が出動、住民4000人の村を包囲し、不穏分子を次々と逮捕した、またダライ・ラマが米議会から議会名誉黄金章を授与された当日の早朝、ラサでチベット仏教の僧侶数百人が受章を祝う活動を行っていたところ、4000人の武警や軍兵士が出動し、多数の僧侶を殴打し、数十人の僧侶が逮捕された、とされる。[要出典]

また、同じく49周年となる2008年3月には、3月10日のデプン寺の僧侶によるデモに始まる抗議運動が、3月14日には大規模な暴動に発展し、多くの死傷者を出している。米国の短波放送・自由アジア放送などによると、僧侶や尼僧を含む10人あまりのチベット族がチベットの旗をふり、ビラを配りながら抗議活動を行ったところ、中華人民共和国政府の武装警察が殴るなど暴力で抗議活動を鎮圧。聖職者への突然の暴力に、パニック状態になったとされる。また、300人の僧侶が参加してデプン寺からジョカン寺までデモ行進する計画があったが、市中心10キロの地点で武装警察に鎮圧され50人以上が連行されたという。

この様子は世界各国で大々的に報道され、暴動に対し強硬策を取った中華人民共和国政府は国際的な批判を浴びている。ダライ・ラマ14世は、この行為を文化的虐殺と呼び、激しく中華人民共和国を非難している。逆に、この件で中華人民共和国当局は「ダライ・ラマ14世側による組織的な破壊活動」としており、その「証拠もある」としているが、その疑いについてダライ・ラマ14世側は否定している。[要出典]

ダライ・ラマ14世は、2008年8月21日発行の仏紙ル・モンドが掲載したインタビュー記事で、「(今月)18日にチベット自治区東部のカム地区で抗議行動を繰り広げていたチベット系住民に中国軍が発砲した」と言明した。 インタビューでは、「死者数は確認する必要がある」と前置きしながらも、死者数が140人に達した可能性があるとの認識を示した。 しかし、そのあとダライ・ラマ側はこれを否定する声明を発表し、ダライ・ラマの正確な発言は「これについて耳にしただけだ。確認するすべはない。したがってわたしにはわからない」というものだと説明した[2]。 また、同紙による「今年3月の暴動以降、ラサ地区だけで400人が殺害された」とするダライ・ラマの発言についても、インドにいるダライ・ラマの側近は「カム地方で騒乱が起きたことは認識しているが、死傷者数やその他の詳細については知らない。騒乱が起きた正確な日時も分からない」としている[2]。

開発の進行と伝統文化
チベットには、青蔵鉄道が開通し、高速道路も建設され、中国政府は観光客の誘致を図っているが、文化の破壊が加速するとの懸念もある。さらに、日本を含む外国からの観光客は減少しているとの報道もある。

現在、カイラス山を通る自動車専用道路の建設を中華人民共和国政府は計画しているが、信者は「聖地が破壊される」と主張して中止を求める国際的な運動を展開している。

^
西蔵之旅

――農耕に適さない西チベットの高地では遊牧生活しかない。彼らはヤクや羊を放牧しながら、僅かな草を求めて移動する生活を先祖代々続けているのだ。――

ペマ・ギャルポ講演会 [2]

――Q 中国政府が言うチベットの農奴制解放について(質問者:おばさん)

A そもそもチベットに農奴制が成立するような環境ではなかった。 第一、チベットのかなりの広範な地域では遊牧を行っていて転々と移住する人するので「農奴制」が成立するような環境ではなかった。「農奴制」という言葉自体が中国政府がチベット解放を正当化するために用いている言葉に過ぎないのではないでしょうか?でも確かに僧侶や王侯、豪族、貴族は存在し、それによってラサなどの都市では上に 納めることもあったが、それは歴史的に中国で もヨーロッパでもあったことであったといえる。――

^ a b 訂正:中国軍が五輪中にチベット弾圧、死者140人の情報も=ダライ・ラマYahoo!ニュース
^ 2008年10月1日(国慶節)現在、ラサを取材した京都新聞の記事によれば、――中国人観光客が増える一方で外国人観光客は激減している。入域許可証発行が厳格化され、自由な旅行ができないためだ。(2008/11/15 京都新聞夕刊 ■チベット・ラサ探訪 〜騒乱の影 色濃く〜)――とされている。

2009年01月17日

デュエルモンスターズ以外のゲームについて

DMクエスト(デュエルモンスターズクエスト)
ビッグ5が作成したRPGゲーム。デュエルモンスターズのカードを駆使して伝説のF・G・Dからゲームの世界を守るというもの。ただしプレイヤーのライフが0になった時点でゲームオーバーとなる。決闘者の王国での遊戯達のデュエルを参考にしている。また、モクバをモデルとしたお姫様が登場する。
いしか ネーブル すたーふる リンホ オペミ 人気ツル タルク ガバナンス 二人のロ フォレ ギロチン トンコツ なか ダンス エベント タクティ タシケント バトンタ ポンプ グルーピー ツァイ ティッ フラット オーソ カルソ ラングド テニス ルチンスク プレーバコ とんだばや ピラカンサ パートタイ コネク ディア ミニチュア ラミア ルクソール ドアロック キンモ ビッグベン のあや フロイト リリー ビッグ ケワキ ハープ レンブ ビーエス ノッチ ロック


DDM(ダンジョン・ダイス・モンスターズ)
御伽龍児が生み出したゲーム。原作ではDDD(ドラゴン・ダイス&ダンジョンズ)と称されていた。様々な紋章が描かれたダイスを振ってモンスターを召喚。自分が振ったダイスを展開させてダンジョンにしてモンスターを動かし、戦わせる。原作ではこのゲームのオリジナルモンスターが使われたが、アニメでは御伽がペガサスに売り込みをした事により、ブラック・マジシャンなどデュエルモンスターズのモンスターも取り入れられていた。またデュエルモンスターズの方にもこのゲームを参考にしたと思われるカードが作られ、御伽が使用している。

デッキマスター
乃亜編で使用されたデュエルモンスターズの特殊ルール。ゲームそのものは通常のデュエルモンスターズと同じだが、以下の点が異なる。

自分のデッキからモンスターカードを一枚選び、そのモンスターを自分のデッキマスターとする。デッキマスターはフィールドとは別の場所に置いておく。
デッキマスターはそれぞれ「デッキマスター能力」という特殊効果を持つ。この効果は相手ターン中にも使用でき、発動と効果は無効化されない。
デッキマスターは自分のモンスターとして自分の場に特殊召喚することができる。デッキマスターは生け贄召喚のための生け贄にはできないが、儀式召喚の生け贄と融合素材としては使用することができる。
デッキマスターが墓地に送られたプレイヤーは、そのデュエルに敗北する。また、デッキマスターを融合素材にした場合と儀式召喚の生け贄にした場合は、それによって召喚されたモンスターが墓地に送られた時、そのプレイヤーはデュエルに敗北する。
アニメに登場したデッキマスターとその効果は、以下に掲載する。モンスター名の後の名前は使用したプレイヤーである。

青眼の白龍(海馬(コンピューター))
デッキマスターのこのカードを融合素材とした「青眼の究極竜」は融合したターンに攻撃できる。
絶対防御将軍(コンピューター)
絶対防御バリア:相手が攻撃宣言した時にライフを1000ポイント支払い攻撃してきた相手モンスターを破壊する。
深海の戦士(ビッグ1)
リフレクター・ホール:自分の場のモンスター2体を生け贄に捧げる事で、相手モンスター1体のモンスターへの攻撃を無効にし、そのモンスターの攻撃力分のダメージを相手に与える。
クリボー(遊戯)
相手からの戦闘ダメージでライフポイントが0になる直前に特殊召喚され、その戦闘ダメージを0にする。
ペンギン・ナイトメア(ビッグ2)
自分の場の水属性モンスターの攻撃力を200ポイントUPする。
ブラック・マジシャンガール(杏子)
ソウル・サークル:場に召喚された時、自分の墓地の魔法使い族モンスターの数だけデッキからカードをドローする。
ジャッジ・マン(ビッグ3)
無期懲役:1000LP払う事によって発動。相手の場のモンスターを全てゲームから除外。除外したモンスター1体につき500ポイントのダメージを相手に与える。
炎の剣士(城之内)
このモンスターの攻撃力を100単位で減らす事で、その数値分自分フィールド上の戦士族モンスター1体の攻撃力をアップする。
機械軍曹(ビッグ4)
支援砲撃:自分の手札の機械族モンスターを捨てることで、相手プレイヤーに一枚につき500ポイントのダメージを与える。
レアメタル・ナイト(本田)
自・敵ターン問わず、好きなタイミングで魔法・罠カードをセット出来る。
速攻の黒(ブラック)忍者(御伽)
手札を2枚捨て自分の場以外に置かれた伏せカード1枚を自分のカードとして使用する。
心眼の女神(静香)
フュージョニック・アイ:手札の魔法カードを一枚捨てることで、「融合」魔法カードの代わりとすることが出来る。
人造人間-サイコ・ショッカー(ビッグ5)
相手の罠カードの発動と効果を永続的に無効化し破壊する。自分は罠カードを使用可能。
ロード・オブ・ドラゴン-ドラゴンの支配者-(海馬)
500LPを払う事で自分の手札のドラゴン族モンスター1体を通常召喚する。
ブラック・マジシャン(遊戯)
セパレート・マジック:ライフを1000ポイント支払うことで、このターンに使用した魔法カードを墓地から1枚手札に加える。
カイザー・シーホース(海馬→遊戯)
光属性の上級モンスターを生け贄召喚する際、その生け贄を1体だけ減らすことができる。必要な生け贄の数が1体の場合は生け贄が不要となる。
奇跡の方舟(乃亜)
収容能力:互いの墓地に送られるべきモンスターカードと墓地に存在するモンスターカードを方舟に収容する。
絶対防御:攻撃されたとき、攻撃モンスターの数だけ方舟に収容したモンスターをランダムに選び、守備表示で場に出す。
生命の回復:収容されたモンスターを全て除外し、1体につき500LP回復する。
能力を発動しはじめてから7ターン後、天界王シナトとなる。
天界王シナト(乃亜)
相手に与えたダメージの数値分、自分のライフを回復する。
輪廻転生:場に出ているこのカードが破壊されそうになったとき、その破壊を無効にして再びデッキマスター本来の位置に戻る。この能力を使用した後は再びシナトを召喚することはできない。
このカードは守備モンスターを破壊すると相手のライフを半分にする能力も持っていた。勘違いしやすいがこれはシナト自身の特殊能力であってデッキマスター能力ではない。

決闘(ディアハ)
3000年前の古代エジプトで行なわれていた戦いの儀で、デュエルモンスターズの原型ともいえる儀式。自らの心の映し身である精霊や、罪人の悪しき心に宿る魔物を召喚して戦わせる(ただし悪人でも自身の行いに罪悪感を持っていなければ精霊を召喚できる)。TVシリーズでは精霊を召喚する際にデュエルディスクに酷似した道具「ディアディアンク」を使用する。